東夷伝の世界から邪馬台国に迫る 第3回古代史フォーラム

2017年09月12日

「ミスター吉野ケ里」と呼ばれる福岡県飯塚市出身の考古学者、高島忠平氏(77)が監修する連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く―イイヅカ発古代史情報最前線」の第3回フォーラム「邪馬台国と東夷伝の世界」が10月1日、飯塚市のイイヅカコスモスコモンで開かれる。中国の歴史書「三国志」の中にある魏書「東夷伝倭人(わじん)の条」(通称・魏志倭人伝)の記述を中心に邪馬台国の世界を探る。

「魏志倭人伝」の冒頭部分

東夷伝は、中国の歴代王朝について記した「正史」の中に登場する東方の諸民族についての記述。日本古代史に関する最古の史料とされる魏志倭人伝以外にも、「東夷伝」や「倭国伝(わこくでん)」などとして、弥生時代の日本を記述した文献が残されている。

フォーラムでは、考古学者で九州大名誉教授の西谷正氏と、古代史家で日本地名研究所所長の関和彦氏がそれぞれ講演し、高島氏を交えてパネル討論を実施。各文献資料を比較し、実際の発掘品が示す歴史的事実と照らし合わせながら古代史最大の謎に迫る。

主催は、飯塚市教育文化振興事業団、同市立図書館、西日本新聞社などでつくる「遠賀川古代史事業推進実行委員会」。午後1時半開演で定員500人。無料だが資料代として2千円。住所、氏名を記入してファクスで申し込みが必要。

 

同盟が倭国統一後押し  西谷正九州大名誉教授

西谷正氏

中国の正史である「魏志倭人伝」になぜ邪馬台国が記載されているのか。鍵になるのが、当時の国際情勢だ。中国は有名な「三国時代」で、魏側には朝鮮半島南部の国々や日本と外交関係を持つことで、呉や蜀に対抗する戦略だった。

倭国(わこく)にとっても理由があって、各地にクニが誕生していく中、それを押さえて統一を進めたのが邪馬台国。中国の王朝と同盟を結ぶことで国々ににらみを利かせることができる。魏と倭人(わじん)それぞれの思惑で外交関係が成立。女王卑弥呼が「親魏倭王」として記載されることになった。

中国の歴史書には弥生期におけるクニの数に関する記述もあり、中期後半の「百余国」が後期終わりに「三十」まで統合されたと考える研究者が多いが、私は数百に増えたという立場だ。魏志倭人伝冒頭の「使訳通ずる所三十国」が根拠だとしても、魏と外交関係があったクニの数とする方が妥当だ。日本はその後、律令時代に約600の郡が置かれる。その基礎となる地域単位が「クニ」として弥生後期に成立していたのではないか。

嘉穂地域にもクニがあり、その王が眠るのが飯塚市の「立岩遺跡」。どんなクニだったのかを述べていきたい。

西谷 正(にしたに・ただし) 大阪府出身。京都大大学院文学研究科修士課程修了。専門は東アジア考古学。著書に「魏志倭人伝の考古学―邪馬台国への道」など。九州大名誉教授。海の道むなかた館館長。78歳。

 

関西勢力が倭国を併合  関和彦日本地名研究所所長

関和彦氏

東夷伝を読む際には地名や固有名詞だけでなく、中国語特有の表現に注目することが必要になる。例えば「水行(こう)」と「海を度(わた)る」の使い分け。同じ日数、船を利用したとしても、海岸線に沿っての航海(水行)と大海を越える航海では移動距離が大きく異なり、邪馬台国の位置の推定にも大きく影響してくる。

私は邪馬台国九州説を支持しており、魏志倭人伝の「倭国(わこく)」も卑弥呼がいた九州や周辺世界を指していたという立場だ。中国正史の一つ「旧唐書」には「日本、旧(ふる)くは少国なれども、倭国の地を併せたり」という記述がある。当時の日本列島には倭国王である卑弥呼の勢力地域とは別に、同じ民族「倭種」が治めていた地域が関西にあって、そこが後に倭国を併合して「日本」になったと考える。

邪馬台国時代、筑豊地区には飯塚市の「立岩遺跡」に代表されるクニがあったとの説も有力だが、研究者はどうしてもクニばかりを考えがち。魏志倭人伝にも倭人は「山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す」とあり、飯塚にあったのが比較的大きな「ムラ」であっても不思議ではない。フォーラムでは筑豊のムラがどう発展し、歴史上に現れていくかにも触れたい。

関 和彦(せき・かずひこ) 東京都出身。古代史家。文献資料を通じた邪馬台国研究を続け、早稲田大学第一文学部大学院修士課程在学中に「邪馬台国論」「卑弥呼」を出版。日本地名研究所所長。71歳。

 

魏志倭人伝

魏、呉、蜀3国の歴史を晋の歴史家陳寿が285年頃にまとめた中国正史「三国志」のうち、「魏書」の烏丸鮮卑東夷伝にある倭人(わじん)の条の通称。2千字余りで構成され、邪馬台国があった3世紀の日本を知るには第一級の歴史資料とされる。

住所:日本福岡県飯塚市飯塚14−66 イイヅカコスモスコモン

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