勢田の多賀神社  背景に国産み神の伝承か

2017年09月16日

多賀神社と言えば、直方市を思い浮かべるだろう。筑豊には同名の神社が複数あり、そのひとつが飯塚市上勢田(旧頴田町)の中心地で、丘の上に鎮座している多賀神社だ。

茅の輪が取り付けられた一の鳥居

一の鳥居に飾られた禍払いの茅の輪をくぐり参道の階段を上ってゆくと広い境内に開放的な絵馬堂をもつ拝殿が見えてくる。福岡県の近世神社建築によると本殿は、一部が19世紀ごろに改修されただけで、ほぼ建立時の姿を残している。大型三間社流造、銅板葺で傷みが激しくなったので10月から修復工事に入るという。

傷みが激しく、10月から修復される多賀神社の本殿

御祭神は国産みに大きな役割を果たした伊耶那岐命(いざなぎのみこと)、伊耶那冊命(いざなみのみこと)の夫婦神だ。社伝によると当社は昌泰年間(898~901年)に創建された。その後、天文年間(1532~55年)の兵火により焼失し、1604(慶長9)年に現在地に社殿を造営して遷座した。1701(元禄14)年には、社殿改築に当たって当時直方藩主黒田長清公から改造木材や「妙見宮」の神額が奉納された。

1872(明治5)年に村社、1922(大正11)年に郷社へと昇格した。頴田町史によると、明治維新の際、妙見宮から多賀神社に改名された。

直方の多賀神社は1691(元禄4)年、妙見神社から多賀大明神に改めたと筑前国続風土記に記載されている。

多賀神社は古来勢田区民の「鎮守の神」としてあがめられていたことから明治に入って炭鉱景気とともに祇園山笠もにぎわうようになり、最盛期には6台の山笠を仕立て本山の高さは約㍍にもなったという。

明治を経て大正から昭和50年ごろまで続いたが、現在は担い手不足もあり、取りやめとなっている。しかし獅子舞や本殿のしめ縄づくり、夏越し祭りなどの行事が続いている。

興味深いのは、黒田藩領だったこの地域には直方、綱分、鴨生を加えると4カ所に多賀神社が鎮座している。こうした例は珍しい。多賀とは「古事記」で伊耶那岐命が鎮座した地名のことだ。播磨から来た黒田藩が江戸時代に流行していた「お多賀さん」(滋賀県の多賀大社)信仰に厚かったからか、神代の伊耶那岐命の伝承を藩内で確認したからか。興味は尽きない。

いずれにしても頴田地区周辺は、鹿毛馬神籠石、日王山など古代からの遺跡、歴史伝承の多い地域であり、飯塚市多田に鎮座する日若神社の伝承との関連性などを探っていくと新たな多賀神社の歴史がみえてくるかもしれない。
 

多賀神社御祭神のいわれ

古事記上の巻には「伊耶那岐大神は、淡海(あふみ)の多賀に坐(いま)す」とある。神代の昔に伊耶那冊とともに初めて夫婦の道を始められ、日本の国土を造り八百万の神を産んだ夫婦神は、生命の親神様と考えられた。いにしえより延命長寿、縁結び、厄よけの神様として信仰を集め、鎌倉から江戸時代にかけては武家や民衆にも信仰が広まったとされている。

住所:飯塚市勢田 多賀神社

この記事を書いたのは・・

母里聖徳
麻生西日本新聞TNC文化サークル事務局長

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