邪馬台国の世界  研究者2氏語る

2017年10月03日

考古学者の高島忠平氏が監修した連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く―イイヅカ発古代史情報最前線」の第3回フォーラムが10月1日、飯塚市飯塚のコスモスコモンであった。古代史ファン250人が中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述などから邪馬台国に迫った。

中国歴史書の記述などを通じて邪馬台国について論じた古代史フォーラム

西谷正・九州大学名誉教授と関和彦・日本地名研究所所長が基調講演。西谷氏は邪馬台国近畿説の立場から「魏志倭人伝によると、邪馬台国は『七万余戸』とされる。その規模の候補地を探すと纒向(まきむく)遺跡(奈良県)ではないか」と指摘し、関氏は九州説から「女王国の東にも国があって『皆倭種なり』とある。近畿説でこの文章を説明できた人はいない」と述べた。

高島氏を交えたパネル討論もあり、高島氏は「魏志倭人伝では倭国(わこく)の身分制度にも触れ、中国にとって重要な存在だったことが分かる」と語った。

 

魏志倭人伝に見る〝外交〟  西谷氏講演要旨

西谷正九州大学名誉教授

魏志倭人伝には距離・方位など地理情報と、日常的な暮らしぶりを記した生活情報に加え、魏と倭、とりわけ邪馬台国との外交関係が重要な部分にある。魏王朝は呉や蜀などに対抗するための外交戦略として、朝鮮半島や日本列島を味方に付けようとした。

「倭国の乱」を検証すると、舞台は北部九州だけではなく、日本列島の広範囲を巻き込んだ戦いだったことが分かる。武具も各地の遺跡から出土している。


吉野ケ里遺跡(佐賀県)は他のクニから守るための防御性が高い環(かん)濠(ごう)集落の典型。こうした環濠集落は九州から関東まで全国に500カ所近くあるとされる。

魏志倭人伝に記載されていたクニで、最大の人口規模は邪馬台国の7万余戸。集落の大きさでは吉野ケ里も候補になるが、最も大きいのは纒向遺跡(奈良県)。邪馬台国の候補地として有力視している。

 

クニと肩並べた「邑」  関氏講演要旨

関和彦日本地名研究所長

魏志倭人伝に「山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す」など「邑」が出てくるが、注目されてこなかった。小さい邑が集まったのが環濠集落であり、吉野ケ里は邑の大規模なものと考える。

日本書紀(720年)にある松浦や儺といった地名は、3世紀末の魏志倭人伝の末盧や奴とみられるが、日本書紀の「岡」に相当するものは見つからない。

風土記にも「岡」や「丘」は出てくるが、国名ではなく集落としての「岡」「丘」であり、邑落(ゆうらく)があった可能性がある。後々、強大化して720年の時には邑が、クニと肩を並べていることが分かる。

中国の皇帝が100枚の銅鏡を卑弥呼に贈って、まだ卑弥呼に従ってない国々に配りなさいとの記述がある。後々、大和王権は配られた銅鏡を奪う。

このため、現在の奈良県で銅鏡が集中して出たと考えている。

 

邪馬台国像を熱弁  ファン250人沸く

邪馬台国論に聞き入る古代史ファン

飯塚市で1日に開かれた古代史連続講座。中国の歴史書「魏書東夷伝倭人(わじん)の条」(通称・魏志倭人伝)の記述を基にした邪馬台国論は熱を帯び、古代史ファン250人を沸かせた。

パネル討論では、フォーラムを監修する同市出身の考古学者高島忠平氏が、魏志倭人伝が国の名前ではなく「倭人」で書き出されている点に着目し、「卑弥呼が統括していたのは三十国。別の政権の地域もあり、高句麗など東夷伝に出てくる他の地域と比べ、倭人の社会はまだ国としてまとまってないという意味からではないか」と提起した。


日本についての記述は約2千字に及び、東夷伝の他地域よりも詳細に記述されている。関和彦・日本地名研究所所長は「卑弥呼は年間で4回も中国に使者を送っていた。そうした交流を踏まえ、中国も倭に大きな関心を持っていた」と指摘。西谷正・九州大学名誉教授は当時の国際情勢から「朝鮮半島南部の国々より社会として成熟していた。魏も国内で対立する呉との関係から、倭と手を結ぶため詳細な情報が必要だった」と分析した。

一方、邪馬台国時代の飯塚市周辺の姿については、高島氏が「北部九州の交通の結節点にあり、魏志倭人伝に記載のある『不弥(ふみ)国』があった可能性が高い」と主張したのに対し、西谷氏は「遠賀川中流域にクニがあったのは間違いないが、私は不弥国は宇美町にあったという立場」。関氏は「不弥国というクニは同時代の朝鮮半島にもあった。そちらとの関連性を考えるのも重要」と述べた。

次回は11月18日午後2時から、飯塚市飯塚のコミュニティセンターで開催。「遠賀川流域の古墳文化と社会」をテーマに、嘉麻市文化財係の松浦宇哲氏が講演する。

住所:日本福岡県飯塚市飯塚14 飯塚コスモスコモン

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