射手引神社 歴史を生かして創作神楽

2018年01月16日

嘉麻市上山田を一望でき、正面に稲荷山、東方に摺鉢山(帝王山)を望む高台に、射手引(いでびき)神社は鎮座している。

香椎宮、貴船宮の碑が立つ射手引神社入り口

一の鳥居を抜けて130段ほどの石段を上ると広い境内に出る。クスノキ、杉の巨木、初冬の気配に包まれた森の中に本殿がある。

禰宜(ねぎ)の桑野隆夫さんによると、戦後に神社の由緒をまとめた資料が紛失し、福岡県神社誌や旧山田市誌などから由緒をまとめたという。

それによると、射手引神社は、1760(宝暦10)年、古くよりあった香椎宮、貴船宮を併せて祀(まつ)り、射手引神社とした。

小高い森の中に鎮座する本殿

祭神は、旧香椎宮が仲哀天皇、神功皇后、仲筒男神(なかつつのおのかみ)、旧貴船宮が罔象女神(みずはのめのかみ)、高龗神(たかおかみのかみ)、天手力雄命(あめのたじからおのみこと)となっている。

昔、当地に羽白熊鷲なる土蜘蛛(つちぐも)がいて良民を苦しめていた。神功皇后がこれを征伐するおり、貴船宮で神の御加護を祈ると、雲間より光とともに手力雄命が天の射手を率いて加勢した。貴船の神々と手力雄命を併せ射手引大明神として祀ったという。後に里人が香椎宮(福岡市東区)より御祭神をいただき祀ったともいわれている。

中世も領主や里人の信仰厚く、天正年間(1573~92年)には秋月種実が社領十町を寄進し社殿を造営した。寛政年間(1789~1801年)には福岡藩の御祈念所とされていたという。

1845(弘化2)年に山田触惣社と定められ、1873(明治6)年には村社、1929(昭和4)年に郷社となった。

景行天皇の伝承もある。景行天皇がこの地の土蜘蛛を手力雄命と天の射手の力をかりて討伐され帝王山(貴船宮)に祀った。

昭和9年刊行の鞍手郡誌には、神武東征の内容が多くの地名とともに詳細に記載されている。神社や古代の研究者が射手引神社を訪ねてくることもあり、説明に苦慮しているそうだ。

桑野氏は、神社の歴史をもとに新しい創作神楽(弥栄神楽)を地域の若手グループと奉納公演している。地元の祭りやイベントにも積極的に参加している。

境内には、現代作家のオブジェが飾られ、芸術文化の面からも新たな神社の形態に挑戦している。

炭鉱の閉山から40年以上過ぎ、山田の街も過疎化が進んでいる。一方で本来あった自然は取り戻しつつもある。四季折々の例大祭や祇園祭など、神社が果たす役割が地域で見直されており、私も射手引神社の取り組みに注目している。

(麻生西日本新聞文化サークル事務局長 母里聖徳)

 

摺鉢山(すりばちやま) 214メートルの小山。地図上は摺鉢山と呼ばれ、歴史の中では帝王山ともされている。地元では、山田小富士として親しまれている。神武天皇が東征の際にこの地を訪れたことや、景行天皇、日本武尊の熊襲征伐の舞台となった伝承が残されている。旧山田市誌によると、戦国時代には、小早川秀秋が城(大王城)を築き、江戸のはじめまで存在していたという。

 

射手引神社
住所:福岡県嘉麻市上山田1539

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