天道神社・大将陣社 平安期の古戦伝承しのぶ

2018年01月16日

遠賀川支流の穂波川沿いに位置し、JR天道駅のある、飯塚市天道(旧穂波町)は江戸時代、旧長崎街道筑前六宿の飯塚宿と内野宿の間の間(あい)の宿、また川船の水運基地、商業地として栄えた。今でも県道沿いには、造り酒屋(瑞穂菊酒造)、しょうゆ屋など往時を思わせる古い町並みがある。

天道神社の一の鳥居

その一角に、天道(天当とも)の地名由来となった天道(てんとう)神社(天道宮)がある。京都にも同様名で、伊勢神宮と同じ天照大神を祀(まつ)る天道(てんどう)神社があるが、関連はよくわからない。

飯塚の天道神社は、神社説明板によれば、御祭神は大日靈貴命(おおひるめむちのみこと)=天照大神とあり、素盞嗚命(すさののおのみこと)、菅原道真公が合祀(ごうし)されている。

言い伝えによれば、平安時代、朱雀天皇の承平・天慶の頃、平将門・藤原純友の反乱(承平・天慶の乱)の際、朝廷より源満仲(多田満仲)が勅命を受けて、藤原純友と大将陣山に対陣し、決戦を挑んだ。満仲は部下に命じて大将陣山の麓に祀る天照大神(天道宮)に祈願し、全軍玉串を襟にさして戦い敵を撃滅したという。

天道神社の拝殿

また貝原益軒の「筑前国続風土記」や「筑前国風土記附録」、「筑前名所図会」などの記録によれば、太郎丸村に慶長年間頃に松永秀西、寛永年間頃にその子の松永孫四郎入道正斎という人が神託を行い、吉凶をよく占い、天よりのお告げで天道宮の社を建てともいう。

入り口に立つ一の鳥居には「天道宮」の額が掛かり、参道には倒立と起立のこま犬が一対、社殿脇には大きな玉に乗ったこま犬が一対ある。拝殿、本殿の彫刻類も立派だ。境内には志賀三社・住吉三社・警固三社の九神社や、鳥居横の石祠(せきし)には恵比須様も祀る。

大将陣山の頂上には大将陣社がある。源満仲が西麓に日天子を勧請し天道のご加護により勝利を祈願した場所とも伝えられる。

応保年間、法然上人を師とし仏門に入った聖光上人が、日天子の御座する当山に登り、西に向いてつえを立てると、不思議にも冷水が湧き出し、水が枯れず神社横の小池になった。この時、上人が歓喜し、石像「大勢至観音菩薩」を奉納したのが起源とも伝えられる。

また一説には、山の東はたに(北斗)七星を祀る祠(ほこら)があり、その左右の池の泥土を塗れば、天然痘を患った者はたちまち治るとして、遠近からの参詣者が絶えず、信奉者たちが拝殿を築造したのが起源とも伝えられる。現在も大将陣社には、皮膚病を治す神として、遠隔地からも参拝者があるという。春には天道神社の参道や大将陣山(公園)には桜が咲き誇り、飯塚の花の名所、観光スポットとして多くの行楽客でにぎわう。

(日本経済大学准教授 竹川克幸)

 

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神社探訪は終了し、来年1月から記紀万葉研究家の福永晋三氏寄稿の連載「新・日本書紀(やまとのふみ)」を始めます。

 

 

京都・天道神社(てんどうじんじゃ) 794(延暦13)年、桓武天皇が平安京に遷都した際に、もともと長岡京に鎮座されていた天照大神・天道神社を京都の三条坊院東洞院の地に勧請し、万民豊穣、子孫繁栄、悪疫退散を祈願したという。応仁の乱などの戦火により焼失したが、1574(天正2)年、織田信長により五条坊門猪熊の境内地を授かり遷座され、現在に至る。京都市下京区仏光寺通猪熊西入西田町。

 

 

天道神社・大将陣社
住所:福岡県飯塚市天道94

この記事を書いたのは・・

竹川克幸
日本経済大学講師

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