古代鉄器テーマ 研究者2人講演

2018年03月02日

考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座の第4回フォーラムが18日、飯塚市のコスモスコモンで開かれ、愛媛大(松山市)の村上恭通教授と国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の松木武彦教授が「卑弥呼の戦争と武器」をテーマに、鉄器が日本にもたらした影響について講演した。

フォーラムで行われた登壇者による討論会

会場には約170人が来訪。村上氏は北部九州で出土した武器の一つ「鉄戈(てっか)」を例に「分厚く長大で実用的ではなかった。装具に力が注がれ、武力を示すよりシンボルとして扱われた」。松木氏は、倭の中心が西から東へ移動した背景について「古墳時代には近畿でも高度な鉄器生産技術を持ち、5世紀にはよろいやかぶとも生産した」と話した。講演後は高島氏も加わり、邪馬台国の場所などで討論した。

鉄の普及と邪馬台国 議論

 

「鉄」からみえる邪馬台国とは-。18日に飯塚市であった古代史連続講座のフォーラムでは、講演者の村上恭通教授と松木武彦教授に高島忠平氏も交え、魏志倭人(わじん)伝に登場する邪馬台国の場所について討論が交わされた。

フォーラム会場では多くの古代史ファンが耳を傾けた

高島氏は「邪馬台国は北部九州にあったととらえ、大和や吉備、出雲にもクニの連合があちこちにあったと考える」と主張。村上氏は「倭人伝に書かれている邪馬台国の社会は、(土着的で)鉄器化されていないように映る。当時の北部九州は鉄器が進んでおり、技術が遅れていた近畿が邪馬台国の姿に近い」といい、松木氏も「鉄の普及状況を見ると近畿以外に考えづらい。考古学では3世紀前半では経済的、政治的中枢が奈良盆地にあったとみられる」と話した。

次回講演会は3月17日午後2時から、飯塚市内で熊本大教授の木下尚子氏が「立岩人の装いと卑弥呼」の演題で登壇する。

中枢の移動に中国の影響    (国立歴史民俗博物館 松木武彦教授)

弥生時代に最も先進的で、倭人(わじん)を代表する王がいたのが北部九州だったのに対し、後の律令(りつりょう)国家につながっていく大和政権の中核ができたのが近畿であったことは明らかだ。ただこの要因を、大和政権が鉄やその流通網を握ったことにあるとはしがたい。近畿で出土した鉄器数や技術は北部九州には及ばないからだ。

松木武彦教授

一方、中国鏡の分布を見ると、紀元前1世紀から紀元後1世紀初めまで北部九州に多かったのが、3世紀ごろまでに近畿を中心に分布するようになった。当時の中国は、遠くの異民族があいさつに訪れるほど皇帝の権威が高かった。金印や鏡を与えられた国は、中国の力をよりどころに国の中心を作っていく。

倭の政治的中枢が移動したことは、日本列島だけの問題ではなく、東アジア全体のダイナミクスの一環として把握しなければならないという考え方もある。

「鉄戈」は武器でなく祭器    (愛媛大東アジア古代鉄文化研究センター 村上恭通教授)  

弥生時代中期、朝鮮半島で鉄製品が増加すると、北部九州でも鉄器の生産が始まり、副葬品として鉄製品が取り入れられるようになった。ツルハシの形状をした「鉄戈(てっか)」は、中国や朝鮮半島に出現後、北部九州にも登場。全長25センチ以下の小型は朝鮮半島産とみられるが、全長25センチから34センチの中型は日本列島産だろう。

村上恭通教授

弁韓・辰韓の特殊な技術を北部九州のみが取り入れ、発展させたとされる。ただ、北部九州での鍛冶工房が全て性能が高かったかというわけではなく、一元的な生産だったとすら言われる。その生産の候補地の一つは春日市地域だ。

鉄戈は実用に不適なことから、武器ではなく祭器と判断されるが、短剣や刀も祭祀(さいし)や儀礼との関連をうかがわせる。鉄製武器は古墳時代に向けて増加するものの、それが武力を示すものか、武威を示すものかは検討が必要だ。

この記事を書いたのは・・

西日本新聞筑豊総局

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