邪馬台国テーマ 研究者が見解

2018年09月13日

考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第4回講演会が8日、飯塚市であり、研究者が「古代史から見た邪馬台国」をテーマに話した。

人間文化研究機構理事の佐藤信氏は「邪馬台国の場所が畿内か九州かは決着がついていない。北部九州が東アジアへの玄関口として大きな役割を果たしたのは間違いない」と主張した。

奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏は、邪馬台国は本来「崇敬な山の入り口」の意味の「山(やま)門(と)」だとする説を紹介し「邪馬台国が九州にあった可能性は高い」との見解を示した。

公開討論では、高島氏が「遠賀川流域も朝鮮半島との交易を担った」と指摘した。

(田中早紀)

九州は大陸への玄関口/人間文化研究機構理事 佐藤信氏

日本の古代国家は、東アジアとの国際関係の中で成立してきた。邪馬台国があった場所は定かではない。ただ、北部九州が中国大陸や朝鮮半島への玄関口として大きな役割を果たしていたのは間違いない。有力者たちは、東アジアとの交流により列島内での地盤を強化したが、楽浪郡や魏などに渡る際は、北部九州を通らなければならなかった。

人間文化研究機構理事の佐藤信氏

6世紀前半、筑後地方を拠点とする豪族の筑紫君磐井は、九州のほかの豪族と新羅遠征を企てた大和政権と戦い、敗れた。この「磐井の乱」については、東アジアとの外交権を巡る戦いという側面にも注目したい。日本書紀によると、磐井は高句麗や新羅などの使節が、大王ではなく自分のところに来るようにすることで、外交権を握っていたとされる。大王としては、こうした状況を認める訳にはいかなかった。

宗像市の沖ノ島が4~9世紀に航海安全を願う国家的祭祀(さいし)の場となったことからも、いかに北部九州が重視されていたかが分かる。

地勢表す地名を大事に/奈良文化財研究所名誉研究員 狩野久氏

邪馬台国は、「台」の文字を「と」と読み、「やまとのくに」というのが正しいという説がある。

「やまとのくに」の「やまと」は「山門」と書く。筑後国山門郡にあったということではなく、山への入り口を意味する。この地名は、どこにでもあるものではない。神聖で、崇敬な山の入り口が「やまと」だ。邪馬台国について考える際は、このことを念頭に置く必要がある。地名はその土地の地勢を表すもので、大事にしなければならない。

奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏

卑弥呼の「弥」は、上に「卑」がくることで「め」と読むと、本居宣長が古事記伝で指摘している。卑弥呼は本来「姫児」と書いて「ひめこ」と読む。各地で女性たちが世の中を治めていた時代、卑弥呼もそうした首長の一人だったにすぎないということだろう。魏志倭人伝を読むにあたって、注意してほしい点だ。

最後に、邪馬台国は九州にあるのではないかと個人的には考える。固執する気はないが、可能性は高いとみている。

 

 

 

 

 

この記事を書いたのは・・

西日本新聞筑豊総局

この記事もおすすめ

カテゴリ記事一覧