纒向、吉野ケ里遺跡で討論

2019年07月16日

考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第1回フォーラムが6月15日、飯塚市のコスモスコモンで開かれた。邪馬台国の場所を巡り、纒向(まきむく)学研究センター(奈良県桜井市)の寺沢薫所長と高島氏が意見を交わし、約200人が論争に耳を傾けた。

寺沢氏は邪馬台国の有力な候補地とされる奈良盆地の纒向遺跡(同市)について「奈良盆地だけでなく周辺にも権力者がいた形跡がなく、そのような場所に3世紀に突然巨大な遺跡ができた。纒向遺跡は計画的に作られた日本最初の『都市』と考えられる」と強調した。

邪馬台国と纒向遺跡に関しては「2世紀の終わりにイト国を中心にした倭国(わこく)が乱れ、混乱を収めるために卑弥呼を共立し、新しい体制を作った。歴史書にある新しい王国ができた時と、纒向遺跡の出現がほぼ重なる」と主張。「卑弥呼がいた纒向遺跡は邪馬台国と考えられるが、さらに大きい王国(ヤマト王権)の最初の大王都だ」と述べた。

吉野ケ里遺跡(佐賀県)の発掘を指揮した高島氏は、列島における王権の生成は多様、多元であったことに加え、魏志倭人伝に「対馬」や「一支(いき)」など九州の具体的な国が記されていることなどを紹介。「卑弥呼が都を置いた邪馬台国は、北部九州地域にあった国の連合体女王国の、有力な『国』の一つと考えるのが合理的だ」と九州説を唱えた。

纒向遺跡は倭国の大王都」/奈良県の研究センター所長、寺沢氏が初登壇

考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第1回フォーラムが6月15日、飯塚市のコスモスコモンで開かれた。邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)を研究する纒向学研究センター(同)の寺沢薫所長が、2017年度から続く同講座で初めて登壇した。主な発言をまとめた。

寺沢薫氏

纒向遺跡は奈良盆地の東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ3世紀の遺跡だ。九州から関東までの土器が出土しており、広範囲の交流がうかがえる。さらに特徴的なのが、前方後円墳が誕生したことだ。纒向型前方後円墳と呼ばれ、前方部が小さくて低く、全長、後円部、前方部の長さの比率が3対2対1となる。設計図を引いて作られたもので、各地に広がっていった。

日本列島では、2世紀の初めから伊都国を盟主とした倭国(わこく)体制が続いたが、2世紀後半に伊都国が頼りにしていた後漢が衰退し、体制に陰りが出てきた。各地の主要な国々は「王」を主張した。混乱を収めるために卑弥呼を共立し、新しい体制を作った。

歴史書にある新しい倭国体制ができた時期と、纒向遺跡の出現がほぼ重なる。それまで奈良盆地や周辺に権力者がいた形跡はない。纒向遺跡は計画的に作られた日本最初の「都市」と考えられる。

卑弥呼のいる邪馬台国は3世紀前半期における日本列島の政治と外交の中枢でないといけない。遺跡の規模を考えた時、纒向遺跡以外は考えられない。

ただ、卑弥呼が纒向にいたとして、纒向遺跡は邪馬台国の都かと問われると、違うと考える。魏志倭人伝での表記で、卑弥呼に関して倭女王、倭王、女王とあるが、邪馬台国女王とは1回も出ない。卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、倭国の女王、倭王だ。つまり、纒向遺跡は邪馬台国の王都ではなく、倭国の大王都なのだ。

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