邪馬台国の所在地巡り 熱く議論

2019年11月08日

 考古学者の高島忠平氏が監修とコメンテーターを務める古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第4回となるフォーラムが10月19日、飯塚市で開かれた。邪馬台国の所在地を巡り「畿内説」「九州説」の立場で講演した、桃山学院大客員教授で大阪府立弥生文化博物館副館長の秋山浩三氏と、小郡市埋蔵文化財調査センター所長、片岡宏二氏の発言要旨を紹介する。

 

年代推定進展「畿内説」後押し/大阪府立弥生文化博物館 秋山浩三氏

 

秋山浩三氏

 年代比定(年代推定)研究の進展により「畿内説」の説得力が増していると考える。邪馬台国を治めた卑弥呼の死は、魏志倭人伝から247年~248年ごろと読み取れる。一方、古墳が出現し始めた年代は300年前後とされ、卑弥呼の死と古墳の出現期には約50年の開きがあるため、これまで無関係とされてきた。
 だが、近年の研究で、最古の古墳の一つ箸墓古墳(奈良県)は240年~260年ごろの築造という説が浮上。懐疑的な学者もいるが、この新しい年代観は認められつつあり、卑弥呼は古墳時代が始まろうとする弥生時代終末期を生きたと言える。
 吉野ケ里遺跡(佐賀県)など北部九州が優勢だったのは、弥生時代中・後期ごろまで。纒向遺跡(奈良県)など近畿が優勢だったのは、弥生時代終末期以降で、邪馬台国と近畿が優勢だった時代が重なる。
 近畿では纒向遺跡や箸墓古墳のように、大規模な集落の遺跡と出現期の古墳が近接して存在する。邪馬台国の卑弥呼が古墳に埋葬されたとも考えられる。
 新しい年代観から、邪馬台国が近畿にあったという畿内説は整合性のとれた仮説と言わざるを得ない。

 

筑紫平野に文化水準高い遺物/小郡市埋蔵文化財調査センター 片岡宏二氏

 

片岡宏二氏

 畿内の纒向遺跡(奈良県)を中心とした勢力が、各地の他の勢力と結びつき、邪馬台国の時代におけるヤマト王権の基礎をなしたという説がある。この説は認めるが「日本は一つの国であってその国はヤマトであり、ヤマトこそ邪馬台国である」と見なすのは間違っている。南北朝時代、中国の歴史書が大宰府にあった南朝を「日本国王」と呼んだように、邪馬台国が日本を統一する政権であったとは言えない。
 邪馬台国の時代、北部九州にも弥生時代中期から後期に栄えた勢力があった。纒向遺跡では九州の土器がほとんど出土しておらず、北部九州が畿内の勢力に支配されていたとは考えにくい。北部九州には畿内とは別の世界があったと考えるべきで、私は北部九州に邪馬台国があったと考える。
 魏志倭人伝で邪馬台国と呼ばれた北部九州の勢力は、筑紫平野に限定されると考えられる。弥生時代後期後半の有力な遺跡は筑紫平野に集中しており、さらにそこからは青銅器やその鋳型、占いに用いられる卜骨など、文化的水準の高い遺物が出土している。筑紫平野で、その外と異質な世界が築かれていたと考えられる

 

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