銅鏡から邪馬台国、弥生時代に迫る

2020年02月12日

考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第7回フォーラムが1月25日、飯塚市のイイヅカコミュニティセンターで開かれた。元大分県立歴史博物館館長の高橋徹氏は自身が推測する邪馬台国の位置や、卑弥呼が魏の皇帝から受け取ったとされる銅鏡100枚について語り、高島氏は銅鏡が弥生時代、祖霊祭祀(さいし)の祭器として使用されるようになった経緯や意味合いを解説した。2人の主な発言内容をまとめた。

邪馬台国 記述通りなら近畿~元大分県立歴史博物館館長 高橋徹氏

魏志倭人伝に記された邪馬台国に至る道のりをたどる際、現在の福岡地方である奴国の後の不弥国は、ほぼ間違いなく飯塚だったと考える。
さらにポイントなのはその後。記述では、不弥国から南へ水行すると投馬国に着くという。さらに南に、投馬国より戸数が多い国として邪馬台国が紹介されている。ここで海路ではなく陸を通って南下すると、宮崎の辺りに行く。近畿説論者たちは、南ではなく書き間違いで東だと主張する。これでは近畿説も九州説も、都合良く解釈しているだけだ。
私はここで、編者の陳寿が記した通りの地図を作ればいいと考える。記述通りなら、(今の日本列島を逆さにしたような)縦に長い形の日本地図が現れる。つまり地図自体が間違っており、これに当てはめると近畿になる。魏の皇帝が卑弥呼に授けた銅鏡はなぜ100枚だったか。魏志倭人伝には倭は百余国からなると記述されており、一国に1枚ずつという計算だったとみられる。

高橋徹氏

 

 銅鏡 権力と祖霊祭祀象徴~講座監修の考古学者 高島忠平氏

 銅鏡は、祭祀の道具として中国から入ってきたと考える。中国の前漢時代、紀元前1世紀に倭は百余国に分かれていて、朝貢する国もあった。単純にモノが入るだけでなく、当時の中国で支配的な思想を、倭人(わじん)なりに取り入れた。鏡は中国では王の澄んだ精神、王権の象徴だった。
縄文時代は、たくさんの神々を祭る精霊信仰が主流で、他部族との戦いごとに選出される長老が支配する社会だった。弥生時代になり農耕が行われるようになると、自分たちに雨などをもたらしてくれた祖先に対する畏敬の念が出てきた。
特定の先行世代の死者が後の人々に連なり、その生活に影響を及ぼすという観念が明確になった。これが祖霊信仰で、祖霊がとりつくものが鏡だ。重要なのは、首長霊を祖霊として祭るようになり、祖霊信仰が支配原理として発展していったと考えられることだ。
祖霊信仰は、銅鏡の分布状況から、北部九州で他地域に先駆けて支配的になり、その後近畿に伝わったとみられる。

高島忠平氏

 

 

 

 

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