遠賀川と邪馬台国を考える

2020年03月22日

 考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く~遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第8回講演が11日、飯塚市で開かれた。昨年6月に始まったシリーズの最終回で、「遠賀川古代文化と邪馬台国」をテーマに、飯塚市歴史資料館の嶋田光一館長、嘉麻市教育委員会生涯学習課の松浦宇哲文化財係長、高島氏が講演した。3人の主な発言内容をまとめた。

飯塚市歴史資料館 嶋田光一館長 立岩遺跡は流通の中継基地

 魏志倭人伝に記されている「不弥国」は、嘉穂盆地にあったと考えており、その有力な候補地の一つが飯塚市の立岩遺跡だ。
 弥生時代、九州北部に伝わった水田稲作文化は、遠賀川式土器とともに東に拡大。その後、嘉麻川上流の鎌田原遺跡から木槨(もっかく)木棺と甕棺(かめかん)から構成された弥生墳丘墓が出現するが、同時期には立岩遺跡で大量に石包丁が作られ、東や西に広がった。後に銅鏡や貝輪など、外国産の宝品が流入した。これらは石包丁の交易活動の成果であるといえる。
 甕棺は立岩を経由し、弥生後期に田川平野にも拡大。立岩からは前漢鏡も集中して出土するなど、立岩遺跡は流通の中継基地的な役割を果たしていた。
 この嘉穂盆地は、峠の道と川の道が交差する内陸交通の要衝地で、玄界灘や有明海沿岸、さらに畿内地域との交流の要所であったと考えられる。

 

嘉麻市教育委員会 松浦宇哲文化財係長 統合され繁栄した嘉穂地域

 弥生時代、北部九州の東と西は、文化基盤が若干異なった。例えば西は甕棺(かめかん)が分布しているが、東は木棺・石棺が主体だ。
このように各地域の文化が多様だったことを踏まえ、卑弥呼の時代前後の嘉穂地域をみる。
 嘉麻市には遠賀川上流最大規模の拠点集落遺跡「椎木・馬見遺跡群」があり、ここは三つほどの地域に分かれているのが特色だ。そこでは20メートル規模の古墳がそれぞれ出現した。
 その初期の古墳に続くのが、忠隈1号墳。これは嘉穂盆地の中央に位置しており、古墳時代初頭まで横並びの多頭政治のような状況だった3地域が、ようやく統合されたのだと推測できる。
 また、武器ではない副葬品から、女性が首長だった可能性がある。
古墳時代後期になると、大型古墳が次々と出現し、この地域はさらに繁栄していった。

 

考古学者 高島忠平氏 遠賀川上流域 不弥国と考え

 弥生時代後期、列島各地には独自の地域王権や政治勢力の台頭を示す独特の集落形成があったことが、考古学において明らかになっており、列島における王権の生成は多様であった。
 邪馬台国は、北部九州地域にあった有力な「国」の一つ。その時代は、日本列島の弥生時代史の結末の一端であり、日本列島における古代国家生成過程の序章でもある。
邪馬台国までの交通・交易の結節的な役割を担っていたのが不弥国だ。私は旧穂波郡一帯を不弥国とする蓋然性が高いと考えてきたが、2人(嶋田氏と松浦氏)の話を聞いて考えが変わった。
 嘉穂地域には三つほどのまとまりがあり、田川郡まで含めて政治的に統合された、と指摘があった。後漢鏡の出土状況などから見ても、田川、旧嘉麻、旧穂波の三つのまとまりがあった遠賀川上流域を不弥国と考えたい。

 

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