『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群 宗像大社宮司の葦津敬之氏が語る「宗像の歴史と未来」前編

2017年02月06日

 7月の世界文化遺産登録への期待が高まる「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」。その構成資産は、宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮と新原・奴山古墳群です。

 西日本支店長会12月例会は、宗像大社宮司の葦津敬之氏による「宗像の歴史と未来」。神社人、神主としての日本のはじまりや皇室の歴史を語ったあと、宗像三女神を祀る宗像大社の歴史、海の民であった宗像一族などに触れながら、世界文化遺産に向けての基本的な考え方、宗像の海を守るための取り組みについて語っていただきました。

(講演日:2016年12月21日)

宗像大社宮司 葦津敬之氏

日本のはじまり

 日本のはじまりは、歴史学者などの専門家の方々がいろんな話をされますが、本日の私の立ち位置は、神社人、神主としての歴史となりますので、そのことを予めご了承賜りたいと存じます。

 私どもが歴史を語る際は、約1300年前に日本が最初に文字による記録として編纂した歴史書『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)が基本になります。

 文字による日本の記録は『魏志倭人伝』という古いものもありますが、私たちはこれを参考程度にしかしません。それは魏志倭人伝が海外の書物であり、整合性に欠ける点が多くあるからです。私はそういう点では、「今でも外国人ジャーナリストの人たちが日本のことをどれだけ正確に描写できますか」と言います。

 古事記、日本書紀は、稗田阿礼という記憶力に優れた人の情報を元に、文字化されています。現代人は口伝の精度はかなり低いと考えがちですが、民俗学からすると「口伝の精度はかなり高い」とされています。

 戦後、フィリピンのルバング島でゲリラ活動を約30年間続けられた小野田寛郎さんは帰国後、『わが回想のルバング島』(朝日新聞社)という本を出版されていますが、ここには何月何日という日誌のような記述があります。私は小野田さんとキャンプをしていましたので当時「日誌をつけておられたのですか」と尋ねたら、「自分はゲリラ戦をやっていたので、日誌のような証拠になるものは一切つけていない。全て頭の中の記憶だと」と言われました。

『わが回想のルバング島』(朝日新聞社)

 当初はそんなことができるのだろうかとも思いましたが、そもそも小野田家には「大切なことは頭に記憶せよ」という教えがあったようで、小野田さんのお兄さんが東大医学部に合格した際には父親が「ノートをとらずに卒業しろ」ということで、実際に卒業されています。つまり、小野田さんのような人と接すると、人間の能力は実はもっと高かったのではないかと気付かされます。

 人類の伝達方法は口伝から文字となり、今は電子に変わりつつありますが、私は携帯電話を持つようになって電話番号を覚えなくなりました。つまり、外部に記憶を依存すると、人間の能力は低下していきます。そのように考えると、古代人の記憶力は私たちの想像を遙かに超えていたのかもしれません。

 宗像の歴史を知るためには、大陸国家との関係は欠かせませんが、学校教育では日本の文化はすべて大陸から入ってきたと教えられます。しかし冷静に考えれば、双方で影響を与える場合もありますし、逆に日本から大陸に伝わったものもあるはずです。特に宗像の歴史は、教育で学ぶ一方通行のベクトルでは、全く説明がつかないことが沢山あります。

 例えば、日本は海洋国家であり、朝鮮半島や中国は大陸国家ですが、大陸国家は民族紛争などが常にあって海にはなかなか目が向きませんが、海洋国家は海に出てようという意識が生まれます。そのように考えると、大陸と日本をつないだ船は、どちらが優れていたかということにも気付かされます。

 さらに、日本には青銅鏡を作る技術がなかったとされていましたが、昨年、弥生時代の青銅鏡の型枠が福岡から出土したことにより歴史が覆りました。漆も中国から伝わったとされていましたが、北海道から9000年前の漆が出土し、福井県からは1万2600年前の漆が出土したことによって、これも覆りました。このように宗像の歴史をみる場合、柔軟な思考が必要だと感じています。
 

皇室の歴史

 神社の歴史を知るうえで、もう一つ大切なことは皇室の歴史です。しかし、学校教育ではこのことも教えませんので、ここではその概略について触れたいと思います。

 日本神話によれば、日本には神代の時代があり、そこで天皇の直系の皇祖神とされる天照大神が誕生し、天照大神が瓊瓊杵尊に、三種の神器(鏡、剣、勾玉)と稲穂を授け、高千穂の地に降臨され、その後、神武天皇が奈良の橿原の地で日本を建国されたとあります。今年はそこから数えると2676年となり、神武天皇から数えると今の天皇は125代目となります。

 天皇家の戸籍ともいえる皇統譜には、日本神話から繋がる系図が書かれていますが、これをみると長生きしすぎているなどという理由から、正確性に欠くという話がすぐ出てきます。しかしよく見ると、後継者が決まらなかったり、亡くなったことを伏せたりしていたのではないかとも読めます。ひとつの例として、中世に武家としても活躍した宗像氏の最後の当主であった大宮司宗像氏貞が亡くなった時は、敵対勢力から攻め入れられる可能性があったため、家臣たちはそのことを伏せます。そのように考えると、皇統譜も決して不自然ではないと思います。

 近年、学校教育では、国家の成立は4世紀、神武天皇も架空の存在のように教えられているようですが、日本政府の公式見解は、この皇統譜が基本になっています。

 戦後、なぜそうなったのか私には理解できませんが、皇統譜には膨大な参考文献もあり、その数は古事記や日本書紀をはじめ約900件の文献によって作られています。つまり、4世紀とするためにはこの膨大な文献を全て覆さなければならないのですが、研究者がそれをやった痕跡はありません。しかし、何故か我が国は政府の見解と違うことが教育現場で教えられています。

 三種の神器の鏡は伊勢神宮、剣は熱田神宮、勾玉は皇居にありますが、それが法律で規定されていることを皆さんご存じでしょうか。皇室には、皇室典範と皇室経済法という二つの法律がありますが、皇室経済法の第七条に「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに皇嗣がこれを受ける」という条項があり、この「由緒ある物」が三種の神器となっています。このことは国会でも取り上げられ、当時、池田首相も「由緒ある物は三種の神器を指す」として、首相名での答弁書が提出されています。

 さらに皇居には賢所、皇霊殿、神殿という三つのお社があり、これを宮中三殿といいますが、賢所には天照大神、皇霊殿には歴代天皇、神殿には全国8万の神社がお祀りされ、天皇はここで年間数多くのお祀りをされています。そして、その天皇のまつりを通して、今も神社と繋がっています。

宗像の歴史

 日本神話によれば、宗像三神の田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神は天照大神の姫神として誕生し、天照大神よりの神勅(命令)によって、宗像の地に降臨されています。

   神 勅
  汝三神宜しく(いましみはしのかみよろしく)
  道中に降居して(みちのなかにくだりまして)
  天孫を助け奉り(あめみまをたすけまつり)
  天孫に祭かれよ(あめみまにいつかれよ)

 これは、宗像三神、宗像の地に降って、歴代天皇を助けなさい、そうすれば歴代天皇があなたたちを祀るでしょうという命令です。

 宗像の大きな特徴は、大和朝廷と連携のもと、日本が最初に開国した場所であり、ここから朝鮮半島や中国大陸との交流交易が始まっています。つまり、歴代天皇を助けるという意味は、海外との交流、外交、国防などを上手くやって日本に繁栄をもたらせば、歴代天皇が祀るということだったと考えられます。そして、歴代天皇が祀った場所が、8万点の国宝が出土した「神の島」沖ノ島になります。

 海外との往来には船が必要ですが、宗像には玄界灘という難所があります。ここは荒海で有名で三角波が立ちます。船は高波でも縦に切れば転覆しませんが、波が前から後ろからくる三角波はすぐに転覆します。そのため三角波が立つ玄界灘を抜ける船を造ることができれば、どこにでも行けます。これを逆から見ると、三角波を想定していない国の船が宗像に入ると、直ぐに座礁転覆してしまいます。そうすると、日本の造船技術の方が進んでいたとも考えられます。

 さらに、なぜ宗像の地が国際港に選ばれたのかとなると、先ずは海外まで行ける造船技術がなければ辻褄が合いません。日本の造船技術については、5世紀初頭に作られた三重県の船形埴輪などにその痕跡がありますが、既にマストのようなものがあり、かなり大きな船の形状をしています。

 また、よく「命懸けで航海した」とも言われますが、海の関係者と話すと「自分たちは命を懸けない。安全に安全を重ねて行く」と答えます。大勢の船員を乗せて海外に行くとなると、当然のことではありますが、安全性を重視しなければなりませんし、そのためには大型の船も造っていたのではないかと考えられます。

 沖ノ島から出土した金製指輪(国宝)は、研究者たちがよく「新羅製」と言いますが、これも朝鮮半島の指輪と比較すると、沖ノ島の指輪の方が良くできています。そのため「新羅よりいい指輪を日本に何故あげたのか」と尋ねると、誰も明確に答えられません。これは6世紀から7世紀には日本の技術が無かったという前提のようですが、例えば、日本においては、6世紀には世界最古の木造建築である奈良の法隆寺が建てられ、7世紀には伊勢神宮の20年毎の社殿や神宝類を造り替える式年遷宮が始まっています。そうすると、日本にはかなりの技術があったと考えるべきではないかと思っています。

 大和朝廷は沖ノ島に三種の神器(鏡、剣、勾玉)をはじめ、たくさんの神宝類を納めています。中でも、鏡と剣は古い時代には日本に技術がなかったということから、「鏡は中国製、剱は朝鮮半島製」と言われます。しかし、鏡は昨年に福岡から弥生時代の青銅鏡の型枠が出土したため、その説は困難になっています。

 ただ、当たり前に考えれば、奈良の大和朝廷が宗像に鏡と剣を納めるため、それらを中国や朝鮮半島に発注するのは今でも困難ですし、その技術が奈良周辺にあったとすれば、辻褄が合います。

 宗像大社の分社は、国家管理時代1944(昭和19)年の資料によれば、全国に6226社あり、一番は広島、これは宗像の分社、厳島神社があるからだと考えられます。2番は群馬。3番が兵庫。そしてブロック単位で見ると、関東エリアに一番多く集中していて、山間部に入り込んでいることがわかります。ただ、このような分布を見ていると、海人族がなぜ山の中に入ったのかとの疑問が生じます。

 これについては、実は海外まで行ける船をつくり、海外貿易をしていた宗像氏の資金源が関係しているのではないかと思っています。そうすると、やはり何か目的を以て山に入ったのではないか。つまり、当時、貴重品とされた金や翡翠のような鉱物を探しに行ったとも考えられます。

 北部九州には、日本神話にも登場する阿曇氏という海人族がいます。この一族は志賀島の志賀海神社の神職として今も続いていますが、宗像氏と阿曇氏は争った痕跡がありません。当時、宗像は海外を中心とした外海の民、阿曇は内海を中心とした民として縄張りを分けていたようです。長野県に安曇野という集落がありますが、ここも九州の阿曇氏が入っていて、今でもこの地域では山の中で海の祭りが行われています。

 そもそも海の民が海のない群馬や長野に入り込んでいるのは、何か目的があったからではないか。阿曇氏の直系の末裔と話をするとやはり「目的もなく山に入ることは考えにくい、資金的なことで入ったのではないか」と言われます。

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=2017.1 Branch 西日本支店長会 掲載=

宗像大社 宮司 葦津敬之(あしづたかゆき)

1962(昭和37)年生まれ。1985(同60)年、皇學館大學を卒業後、熱田神宮に奉職。1987(同62)年、神社本庁に奉職し、1996(平成8)年、主事。総務課長、情報管理課長、教学課長、国際課長、参事、財務部長、広報部長を歴任し、2012(平成24)年4月、宗像大社に奉職。2013(同25年)、権宮司に昇任。2015(同27)年6月、宮司に昇任、現在に至る。

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