卑弥呼の都 熱く議論

2017年07月22日

飯塚市出身の考古学者、高島忠平さん(77)が監修する連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く-イイヅカ発古代史情報最前線」のフォーラムが9日、飯塚市飯塚のコスモスコモンであり、古代史ファンら約300人が集まった。

高島忠平さん(左から2人目)を交えて邪馬台国について語った討論会

 

「卑弥呼の都するところ」をテーマに、武末純一・福岡大教授(67)と七田忠昭・佐賀県立佐賀城本丸歴史館長(65)が講演し、環濠(かんごう)集落や遺構の配置、構造などから邪馬台国について考察。講演後、高島さんを交え、卑弥呼の宮殿や不弥国の場所などについて討論が繰り広げられた。

高島さんが「不弥国は邪馬台国へ向かう起点になる重要な場所」とし、飯塚や旧穂波郡、旧嘉麻郡を不弥国とする説について尋ねると、七田さんは「末盧国や伊都国などは地名として引き継がれ、不弥国も『ほなみ』から考えられる。また弥生時代後期の鏡が一帯から出てきており、その範囲を不弥国と考えていいのでは」と回答。武末さんは決定づけるものがないとし、「クニをまとめた人たちの集落、住まいが出てくればそれが決定打になってくるのでは」と指摘した。

高島さんが邪馬台国のあった所について問うと、七田さんは「九州北部の有明北岸にはあったと思う」と話し、「今の状況で邪馬台国を考える場合に、最も参考になるのが吉野ケ里遺跡の発掘」と述べた。武末さんは「吉野ケ里遺跡なのか、纒向(まきむく)遺跡(奈良県)なのか卑弥呼がいた所は決まらない」と強調し、「一つの可能性があるのは、卑弥呼のところに魏の皇帝が贈った『封泥(ふうでい)』が出てきたらそこが邪馬台国の所在地の可能性があるのでは」とした。

次回は9月2日午後2時から、飯塚市飯塚のコミュニティセンターで開催。「立岩産石包丁の生産と頒布の歴史的意義」をテーマに下條信行・愛媛大名誉教授が講演する。

 

 

弥生後期 海上交易盛ん/武末純一氏

武末純一・福岡大教授

弥生時代集落の展開を考えると、環溝(濠)集落の出現は農村の誕生であり、弥生時代の始まりである。広場や大型建物、高床倉庫など全員のための円形環溝ができ、自分たちと外の人々を区切るようになったことが出発点となる。巨大な集落ができるとともにクニが成立したと考える。

環溝は紀元前1世紀ごろから変化が見られ、一部の人の区画ができ、円形環溝がなくなり佐賀県千塔山遺跡のように方形環溝のみになる。平等の円形と支配の方形は人が集う姿が2種類を表している。方形の区画が出てくるのは、村を指導する人が村の中で存在を明らかにしてきたと言える。

農村と別に、弥生時代の後半期には漁業だけでなく海上交易活動を盛んにする海村が出てきた。国の中心の国邑(こくゆう)は政治権力で海村を制御し、海村は交易世界に接続して国邑を制御したと考えられる。

 

祭祀と政治 集落に拠点/七田忠昭氏

七田忠昭・佐賀県立佐賀城本丸歴史館長

吉野ケ里遺跡のある佐賀平野は弥生中期以降、その豊かな風土から多くの渡来人を受け入れてきた。初期青銅器生産遺跡も集中しており、日本の金属文化は佐賀から広まっていった。

邪馬台国時代の吉野ケ里の特徴として挙げられるのが、北内郭と南内郭という二つの建物。ともに環濠(かんごう)突出部に楼観(物見櫓(やぐら))があり、中国の伝統的な城郭建築法に通じている。こうした点からも、吉野ケ里は中国との交流を通じて、当時の先進的な文化を導入していったと考えられる。

魏志倭人伝によると、邪馬台国には倭国(わこく)の王としての卑弥呼の宮殿とともに、邪馬台国の長官・次官たちが住む区画(宮殿)もあった。北内郭は最重要祭祀(さいし)空間、南内郭は政治的空間とみられており、大集落内に性格を異にする二つの拠点が存在するのは吉野ケ里以外に皆無。この点からも両者の類似性を指摘できる。

 

=2017年7月10日付 西日本新聞朝刊筑豊版=

この記事を書いたのは・・

西日本新聞筑豊総局

この記事もおすすめ

カテゴリ記事一覧