立岩産の石包丁 交易ルート解説

2017年09月04日

考古学者の高島忠平氏(77)が監修した連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く―イイヅカ発古代史情報最前線」の第2回講演会が2日、飯塚市飯塚のコミュニティセンターであり、愛媛大名誉教授の下條信行氏(75)が「立岩産石包丁の生産と頒布の歴史的意義」と題して講演した。

立岩産石包丁の歴史的意義などがテーマとなった講演会

石包丁は、初期農耕文化において稲穂の収穫などに使われた磨製石器の一種。飯塚市中心部にある立岩遺跡群(弥生前期―中期)から大量に出土し、製造跡も確認されている。


下條氏は立岩産石包丁が北部九州各地で見つかっている点を指摘。古代史ファン約200人に「当時北部九州には今山遺跡(福岡市西区)で製造した石斧(せきふ)などの流通網があった。立岩付近では加工に適した石材が大量に確保できたため石包丁の専業生産が始まり、交易ルートに乗って広がった」などと解説した。

 

立岩地域住民が水先案内人 下條氏講演要旨

下條信行愛媛大名誉教授

商品流通の歴史を考えると、縄文時代までは矢尻に使う黒曜石など原材料の流通に限られていた。弥生時代に入ると、北部九州では福岡市西区の今山遺跡で製造されていた石斧(せきふ)など、加工品の流通が始まった。

飯塚市立岩地区で石包丁が生産されるようになった背景には、近くの笠置山周辺で加工に適した材料(輝緑凝灰岩)を入手できたことに加え、福岡平野や筑紫平野など石包丁を必要とする地域に近い地理的優位性があった。

立岩産石包丁は各地域で独自に作られていた石包丁に比べて耐久性など相対的には優秀だが、刃物として絶対性があったわけではない。石包丁の流通だけで立岩遺跡から出土した前漢鏡や銅矛などに代表される繁栄の説明はできない。

もう一つの考えなければいけない要素は、当時の北部九州で最も有力な地域だった福岡平野(奴国)との関係性だ。弥生中期後半以降、奴国で生産された青銅器や鉄器は交易によって大分やさらにその東の瀬戸内海方面にまで広がった。交通の要衝に位置する立岩地域の人たちが水先案内人になり、奴国の進出を支えたのではないか。そのことで立岩の政治的な立場も上がったと考えれば、クニの発展ぶりも理解できる。

 

弥生の商品流通、加工技術で討論

「立岩産石包丁の生産と頒布の歴史的意義」をテーマにした2日の講演会では、「ミスター吉野ケ里」こと高島忠平氏(77)と愛媛大名誉教授の下條信行氏(75)が討論。立岩産石包丁の産地調査を行った約50年前からの付き合いという2人の率直な討論に会場は沸いた。

立岩産石包丁や弥生時代の商品流通についての話に耳を傾ける来場者

下條氏が講演で述べた弥生時代中期までの商品流通に対し、高島氏は邪馬台国時代とされる弥生後期の商品流通について質問。下條氏は「地域や国同士の政治的序列が形成され、それ以前の自由経済的な姿からは一歩後退したかもしれない」と述べた。

意見が分かれたのは北部九州での青銅器や鉄器の生産について。福岡平野にあった奴国が先進的な技術を保有していたと主張する下條氏に対し、高島氏は「利用勝手面から筑紫平野にも(生産拠点が)あったとみた方がいい」と指摘した。

来場した古代史ファン約200人は時を忘れて歴史談議を堪能。立岩地区での鉄器生産の可能性について下條氏に尋ねた飯塚市川島の新原たか子さん(76)は「奴国とのつながりで、飯塚でも鉄器を生産していた可能性も指摘してもらい、期待が高まった。さらに調査が進んで実態が解明されたら」と期待を述べた。

次回は10月1日午後1時半、飯塚市飯塚のコスモスコモンで開催。「邪馬台国と東夷伝の世界」をテーマに、西谷正九州大名誉教授と日本地名研究所所長の関和彦氏が講演する。

=2017年9月3日付 西日本新聞朝刊福岡県版、筑豊版=

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