太祖神社  神代からの伝承数多く

2017年09月02日

太祖神社は、赤村赤の戸城山北東の山浦地区に鎮座している。県道から下った道沿いの斜面に一の鳥居が見えてくる。階段を上ると左手に神功皇后御腰掛石が置かれている。さらに段ほど上ると、神功皇后ゆかりの神社によく見られる二足立ちと逆立ちのこま犬が迎えてくれる。小さな石造りの太鼓橋を渡り、境内から本殿へ向かう。拝殿内部の扁額(へんがく)には、「妙見宮、八幡大神」と併記されている。

境内に安置された神功皇后御腰掛石
二足立ちと逆立ちのこま犬

赤村史によると、太祖神社には2社が鎮座している。

ひとつは「妙見大権現」で、593(推古元)年に戸城の山頂に現れた天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)の三座を戸城山山頂で祀(まつ)る神社だ。

福岡県神社誌では、戸城山山上に白旗のような神火が現れ、「吾は北辰妙見である。今この山にとどまって国土守護の明神たるべし」と神託があった。そこで社殿を戸城山に造って「遠白山妙見大権現」として崇(あが)めたとある。

もう一社は「風雨八幡宮」で田峯の宮の谷にあった神社だ。応神天皇、神功皇后、姫大神の三座を祀っている。

そもそも八幡三座をこの地に祀ったのは、神功皇后が征韓凱旋の後、筑前大分から陸路穴門の豊浦の宮に帰られるとき、この地で雨風が激しく進むことができなくなった。一行は、激しい風雨が鎮まるよう祈り、その後、風雨八幡宮と崇められるようになったという。神社の創建年代は不詳だ。

この地は深い渓谷で、神功皇后は「この先にも村ありや」と語られた。そこでこの山の先を崎山と言い、山の方を山浦、後山という伝承も残されている。

村史によると、妙見大権現は1339(延元4)年に菊池武重が山上に築城するにあたって宿の谷に遍座(せんざ)、1458(長禄2)年に大庭景宗が二つの神社を遍座し現在地に合祀(ごうし)したとされる。

1879(明治12)年、明細帳書上の際に太祖神社としたという。現在戸城山麓内田地区にはほかに二つの太祖神社があり、いずれも戸城山より勧請したとされている。


毎年4月28日より5月5日までの間に三社の神幸祭がそれぞれ行われている。村指定の無形文化財である太祖神社神幸祭大内田岩戸神楽は、さまざまな舞いに優雅さと激しさがあり、見応えがある。

赤村には古くからの遺跡や遺産が多く残されている。太祖神社は神代からの話や神功皇后伝承などが残っていて、人々はそれらを大切に守り日々の生活の中で神々を祀り信仰を継承してきた。だからこそ明治になってこの社名を付けるに至ったのであろう。
 

神功皇后御腰掛石

太祖神社がある山浦地区は、行橋添田バイパス(県道34号)が通り、交通の要衝だ。古代から切り開かれた往還で、神功皇后はこの道を通って京都郡に抜けた折、神社の北東100㍍にあった石に腰掛けられた。地元では、この石を明治年間まで丁重に保管管理してきたが、多くの人に触れてもらおうと村民が相談し、神社一の鳥居の左側に移動して現在に至るという。

住所:赤村 太祖神社

この記事を書いたのは・・

母里聖徳
麻生西日本新聞TNC文化サークル事務局長

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