飯塚市椿(旧穂波町)に鎮座する椿八幡宮はこの地域でも由緒ある神社で、県道60号沿いに立つ白い大鳥居が目印だ。

大鳥居や、かつて放生池だった神池からおよそ100㍍進むと小さな太鼓橋があり、鳥居から延びた参道脇には一対のこま犬、奥に社殿や安藝殿宮、八幡稲荷宮などの境内社がある。
ご祭神は、勝利の神の品陀別命(ほむだわけのみこと=応神天皇)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=応神天皇御生母の神功皇后)、足仲彦命(たらしなかつひこのみこと=父の仲哀天皇)、300歳まで生きた伝説を持つ武内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと)―の4柱で、八幡信仰の系統だ。
福岡県地理全誌や嘉穂郡誌などによれば、椿の地名は、神功皇后が三韓出兵の帰途に大分からこの地に立ち寄った際に堅木で作った剣の鍔(つば)を奉納したことに由来する。末世までの「敵国降伏」、日本の平和と繁栄を祈願された。
白村江の戦いの際に、朝倉宮に斉明天皇が遠征した時や元寇(げんこう)の際にも、その故事に倣い当地に勅使を立て「敵国降伏」を宣誓したという。
ほかにも椿の枝で応神天皇の御殿を建造した、椿の花で神功皇后が応神天皇をあやしたなどの伝承もある。
古来より椿の木が植生していたようで、筑前国から椿油を朝廷に献上した記録(延喜式)もあるという。かつては社前に枝の奇異なる椿の木があったという。現在は社務所の前に椿の木を植え継ぎ記念樹として守られている。
社伝や縁起・棟札によれば、この地は宇佐八幡宮の神領・荘園の椿庄で、孝謙天皇の御代の751(天平勝宝3)年に宇佐八幡宮から筑紫水沼の君の後裔(こうえい)、「秀村安芸大夫長晴」を神官兼代官として迎え、宇佐八幡宮から勧請したことが始まりのようだ。
その後、秀村氏の後裔(秀村・青柳・宇良・吉田の四家に分かれる)が代々祭祀(さいし)をつかさどり、現在でも秀村氏が当宮の神職である。
897(寛平9)年には勅命により大宰府政庁が新たに創建されたが、当社は椿庄の惣社として朝廷の崇敬が厚く、政庁の官人等も参拝したと伝えられている。
その後この付近は、秋月氏と大友氏との合戦の主戦場となるなど、度重なる戦乱の被害により社殿が焼き払われた。
秀村氏は青柳姓に一時期改姓し、神社の再興を訴え続け、朝廷、幕府や藩によって幾度かの再建、再興がなされ現在に至っている。最盛時には穂波郡9~10カ村を管轄していたという。
10月第2土曜、日曜に開催される椿八幡宮の秋の大祭はこの地域を代表する秋祭りだ。その際に奉納される獅子舞は大分八幡宮の流れを組むもので、雄と雌の獅子がお見合いをし、恋仲になり、乱舞する激しい舞で見応えがあり、地域の伝統を今に継承している。
弥勒堂(みろくどう)
おみろく様とも呼ばれている。かつての神仏習合、神宮寺の名残で、昔から耳の病やいぼに御利益があるといわれている。堂内の弥勒菩薩(ぼさつ)像は、寄せ木造りの木像としてはこの地方最大の仏像とされている。お参りして治療したら火吹き竹を奉納する風習は今も残っているという。

- 住所:日本福岡県飯塚市椿 椿八幡宮
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