邪馬台国は田川!?魏志倭人伝のルートなど検証

2017年02月20日

 「邪馬台国は田川にあった」。畿内か、九州かなど所在地をめぐり論争が続く弥生期(3世紀前半)の倭の女王国を大胆に比定する講演会が7日、田川市であった。地元の研究家らでつくる「豊の国古代史研究会」の主催で、約80人の古代史ファンで満員だった。地域に眠る古代史への関心が次第に高まりつつある。

1里は67・5メートル

 今回の新説を唱えるのは「神功皇后紀を読む会」を主宰する記紀万葉研究家の福永晋三氏(63)。中国史書「三国志」の「魏書東夷伝倭人(わじん)の条」(通称・魏志倭人伝)に記された邪馬台国に至る行程と、古事記や日本書紀、万葉集の記述を比較、検証し導き出した。

 邪馬台国とそこに至る行程は、倭人伝に漢字2008字で記されている。福永氏の説は、この中にある単位「里」の定義が鍵となる。福永氏は中国の古典を調査し、紀元前の周の時代に使われた里(50歩、67・5メートル)を採用した。「謝承後漢書」に記された「楽浪郡」(北朝鮮・平壌)から女王国(邪馬台国)に至る「万二千余里」を換算すると、現在の行程距離810キロと等しかったのが根拠だ。

 倭人伝には、韓国南部の「狗邪韓国」(韓国・釜山)から海を千余里渡ると「対海国」(対馬国)=長崎県対馬市=に至るとある。換算すれば約70キロ。現在の両地点(釜山・巨勢島-対馬・浅茅湾)の行程70キロとほぼ等しい。さらに倭人伝には、対馬から「南一海を渡る千余里」で「一大国」(一支国)=同県壱岐市=に至るとしている。両地点間も約70キロにあたる。

 福永氏と同研究会、読む会のメンバーら約20人は4~5日、福永氏の新説に沿い、一支国から田川に至るルートをたどった。

「末盧国」は宗像市

 倭人伝に登場する国々の中で、唯一王都として特定されているのが、一支国の「原の辻遺跡」だ。邪馬台国と同じ弥生期の大規模環濠集落や日本最古の舟着き場跡が発見され、国特別史跡に指定されている。

「一支国」の王都とされる原の辻遺跡(長崎県壱岐市)。弥生時代風の集落が再現されている

 ここからが、福永氏の説だ。倭人伝には一支国から「一海を渡る千余里」で末盧国(まつろこく)に至るとある。壱岐市から約70キロの末盧国を宗像市と比定するのだ。

 末盧国の有力地、佐賀・松浦地方では、壱岐市からの距離が近過ぎると指摘。倭人伝の「魚鰒(ぎょふく)を捕ふを好み水深浅と無く皆沈没して之を取る」との記述は魚やアワビを捕る海女漁を指し、宗像市が「日本海の海女発祥の地」として知られることにも着目する。

 同市にある弥生期の田熊石畑遺跡は、6基の木棺墓から武器型青銅器15本が出土した集団墓や環濠、船着き場の推定地もある集落。北部九州有数の有力者の存在をうかがわせる場所を末盧国の王都と推定している。

宗像市の田熊石畑遺跡を見学するメンバー

卑弥呼は大任町に?

 末盧国の次に登場するのは伊都国だ。

 ここで、福永氏は「伊都」の読みは「いと」ではないと主張する。記紀や播磨国風土記にある「伊都」はすべて「いつ」と読まれているためだ。この点から、伊都国を糸島市付近とする定説に疑問を呈している。

 倭人伝によると、末盧国から「東南陸行五百里」の場所が伊都国とある。宗像市から東南に35キロ進んだ地は小竹町付近だ。

 伊都国から東南へ百里(約7キロ)行った「奴国」は飯塚市付近、そこから東へ百里(同)の「不弥(ふみ)国」は糸田町付近にあたるとそれぞれ推定する。倭人伝の記述では、この後、「南のかた投馬国(つまこく)に至る、水行二十日」、「南のかた邪馬台国に至る」と続くが、福永氏はこの2文は入れ替わったものと推測。不弥国のすぐ南側、現在の大任町付近に邪馬台国があったと結論付けている。

 今のところ、伊都国以降の国々の存在を裏付けるような遺跡、ゆかりのある地名などは見つかっていない。ただ、筑豊地域には、神武天皇や神功皇后など、邪馬台国前後の伝承のある神社や遺跡が点在しており、記紀や万葉集にもこれらを裏付ける地名が多数認められるという。

 福永氏は「筑豊に隠れた古代の歴史を見れば、そこに邪馬台国が存在したことはごく自然なことで、矛盾もない。今後の研究、調査で説を裏付ける発見があることを期待したい」と話している。 (吉丸宣孝)

=2016年8月8日 西日本新聞朝刊(筑豊版)=

この記事もおすすめ

カテゴリ記事一覧