弥生時代から古墳時代へ 城野遺跡から見える転換期

2017年03月02日

 弥生時代から古墳時代への転換期の様相が、北九州市小倉南区の城野遺跡から見えてくる。手掛かりは、九州最大級の方形周溝墓(弥生時代終末期=約1800年前)と、赤色顔料(水銀朱)が多量に塗られていた箱式石棺。城野遺跡の存在は何を意味するのか。

※北九州市小倉北区で2月に行われた城野遺跡に関するシンポジウムからご紹介します。

移設された城野遺跡の箱式石棺
=北九州市小倉北区の市立埋蔵文化財センター

大和派と非大和派のパッチワーク

 城野遺跡は紫川上流域にある集落跡。方形周溝墓(東西約16メートル、南北約24メートル)のほか、九州2例目の玉作り工房の跡もあった。2月に同市であったシンポジウムでは、当時、成立直前の段階にあった畿内の大和政権を踏まえ、城野地区の盛衰をめぐる研究者3人の見解は分かれた。

 「大和政権と仲良くならず、勢力は衰退していた」と同市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室の宇野慎敏学芸員は話す。約4キロ南東にある臼山古墳(同区長野)を、城野遺跡より少し古い前方後円墳(全長約39メートル)と推定。長野地区が畿内発祥の新しい墓制を導入したのに対し、弥生時代の墓制を残した城野地区は時代の変化に乗り遅れたとの見方を示した。

 一方、国立歴史民俗博物館の松木武彦教授(日本考古学)は「本当に力がある集団は前方後円墳を築かない」と指摘し、前方後円墳の存在が目立たない出雲東部や奈良盆地南西部を例に挙げた。城野地区は方形周溝墓を巨大化することで権威を示したとして、衰退期にあったとの見方を否定した。

 盛衰はともかく、この時期、大和政権との距離感は各地で異なり、大和派と非大和派がパッチワークのように存在したようだ。

城野遺跡の謎について意見が交わされたシンポジウム=2月、北九州市小倉北区

幼児の巫女? 中国の呪術師?

 城野石棺には、それぞれ幼児が埋葬されていた。墓の規模や水銀朱の量から、被葬者が重要人物であることは確かだ。近年の研究で南側の石棺(南棺)が北側(北棺)よりも先に作られたことが判明しており、「2人はきょうだいだろう」と松木さん。南棺には碧玉製の管玉や鉄製の刀子が副葬されていた。松木さんは「南棺の被葬者は女の子の可能性が高い。巫女(みこ)ではないか」と大胆に想像した。特殊能力を持っていたため、丁重に葬られたのか。

 南棺内には線刻画が施されていた。読み取りづらいが、武器を手にした人物のようにも見える。中国の呪術師「方相氏(ほうそうし)」と解釈する考古学者もいるほどだ。

 福岡市埋蔵文化財課の常松幹雄課長は「(内側なので)第三者が見ない絵。魑魅魍魎(ちみもうりょう)を払う人物というのは想像に難くない」と指摘。人物画という見方に否定的な宇野さんは「魔よけのまじないで格子の線を引いたのではないか」と述べた。城野石棺は原始絵画を理解する上でも貴重な資料だ。

 重要な遺跡、という認識は一致するが意義付けで解釈が分かれ、活発な議論が起こる。そこに城野遺跡の魅力がある。

=2017年3月2日付 西日本新聞朝刊文化面=

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